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【教養・哲学】量子テレポートで転送した人物は本当に「本人」なのか

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少し前に「量子テレポートで転送した人物は本当に本人なのか」という問いに「量子情報物理学の立場から答えると、それは本当に同一人物です。」という回答が話題になった。

今回は、そのことについて「科学」「哲学」の両面からの思考実験を行なっていきたい。(思考実験というのは、そもそも量子テレポーテーション自体が再現不可能な技術であるためなので答えはifにしかならないから)

さて、まずこの問いに対して私なりの回答をするならば、「転送した人物は別人である可能性が高い。しかし、それを科学的に証明することはできない」となる。
よってこの量子テレポートが可能であっても使用すべきではないだろう。

そもそも「本人」とはなんなのか

私は量子情報物理学の専門ではないので、量子報物理学における「本人」の定義についてそのまま引用させてもらう。

転送される「本人」の量子報物理学での定義は、外部の観測者がその対象にあらゆる質問や刺激を与えても、転送する前の人間と全く同じ回答や反応をするというものです。例えば転送前に持っていた記憶は、全部転送後も確認されます。情報が全て漏れなく移動していることが、「本人」の定義です。
https://twitter.com/hottaqu/status/1431788117690765318?s=20

要するに、その転送された人間が外部から見て全くの同一性を確保されている場合は、それは本人であるということだ。

しかし、それは哲学的な自我という観点から見ればそれは正しいのだろうか。

自我という単語には、様々な意味を内包しており、誤解を招きやすいものでもあるので、この記事に関しては私が私であるという自意識のことを「魂」と呼ぶことし、それについては次のように定義する。

私は私であるという意識がある。
・私は私以外の人間になることはできない
・私は私であるという連続性が保持されている。

「意識」とはなんなのか

我々人間は、みな自分には「意識」があると思っている。

そして同時にこの「意識」は機械にも人工知能にも存在しないことを知っている。

しかし、我々の脳をどれだけ観察し解析しても「意識」というものがなぜ生まれるのか科学では全く説明できない。

脳は脳細胞の集まりだが、そこから観測できるのは、人間の意識や感情というのは脳内物質の作用にしか過ぎないということである。実際、脳内物質に作用する薬品を投与すれば我々の意識というものは容易に変化する

実際の例を挙げると、うつ病患者は脳内のセロトニンやノルアドレナリンの機能が低下しており、これに対抗する抗うつ薬を投与することで気分を改善することが可能になっている。

また、我々は「感覚」というものを持っている。感覚とは、例えば我々は赤い色を見ると「赤色だと感じる」のだが、この感じ方や意識ことをクオリアという。

クオリアは概念的な存在ではなく、現実に存在するものであり、「赤を赤と感じるクオリアを司る脳細胞」を遮断すれば、その人物は赤は赤であると説明はできるが、赤という感じ方ができなくなることが分かっている。

つまり、クオリアもまた脳細胞が発している機械的な電子信号に過ぎないはずなのである。

脳科学は近年において劇的に進化し、人間の脳は非常に合理的かつ機械的な存在であることを証明している。

しかし、しかしである。

ではなぜそれほどまでに機械的な脳細胞が意識を生み出しているのか。

これについての説明は全くできない

科学的に言うならば、人間という存在は全く機械的であるはずであり、むしろ機械的であることが科学的に正しいはずなのだが、現実にはそうではないことを我々は意識や感覚で理解している。

ドラえもんの「どこでもドア問題」

さて、話をテレポートに戻す。

テレポートと言えば「哲学的な何か、あと科学とか」という本に掲載された「どこでもドア」が思いだされる。

この書籍では、ドラえもんのどこでもドアを実現する方法として、ある地点に置かれた「どこでもドアA」に人間が入ると、そこでありとあらゆる情報をスキャンして消滅させ、別の地点に置かれた「どこでもドアX」にコピーし再現することで、ワープするという手法を使う。

(注:以下の話に出る『ドラえもん』『のび太』はこの書籍に登場するオリジナル設定であり、原作とは無関係)

そして、『ドラえもん』がそのことを説明すると、『のび太』は「それは僕が死ぬんじゃないか」と驚くが、それについて『ドラえもん』が笑ってそれを否定する。

「キミは常々、『人工知能であるドラえもんにココロがあるかどうかなんて誰にもわからない。そして、人間にだって、ココロがあるかどうかも、原理的に絶対に、誰にもわからない。だから、ココロを持っているかどうかを問いかけるのは、ナンセンスなことだ』と言っていたじゃないか。
 そして、『でも、自分にとっては、ドラえもんも、しずかちゃんも、ココロがあるように見えるんだから、それで充分だよ』とチューリング的な立場で、『ココロ』というものを捉えていたじゃないか。
 だったら、安心しなよ。少なくとも、ドア X から出てきた『のび太』のことを、しずかちゃんもママもパパも、『のび太のココロを持った存在』として、相変わらず認識してくれるよ。だって、そう見えるんだしさ」

この『ドラえもん』のセリフは全く持って正しい。

我々はみな意識を持っており、他人にも意識があることを理解している。

しかし、本当に他人にも自分と同じ「意識」があるのか?という点に関して確認する手段は存在しない。

古典SFで「この世界は造られた世界であり、自分以外の人間はみな超精密なロボットなのだ」という作品は数多く人気も高い。
なぜかというと「他人を本当に理解することは絶対に不可能である」というのは人間の根源的な不安であるからだ。

このテーマは実は現在においても受け継がれている。

例えば、人気アニメであるソードアート・オンラインではネットゲーム内で「ユイ」というキャラクターがいる。

この「ユイ」に対し、その人間らしい反応から主人公のキリトは「ユイは何らかの原因で迷い込んでしまったプレイヤーだろう」と考えるのだが、終盤で正体が判明し実は「ユイはゲームのAIである」ことが分かる。

逆に言えば設定が明かされるまではユイが人間ではないことをキリトたちは気が付かなかった。

我々が他人を「理解している」と認識するのはそれほど薄氷の上のものであり、危ういものであるからこそ、今後もこのテーマは語り継がれるし、むしろこれから先の未来において、人間と寸分たがわぬ見た目と受け答えができるロボットが実現すれば、ますます促進するだろう。

魂の「同一性」について

さて、最後に「魂」のアイデンティティの話に移ろう。

古典情報は簡単にコピーができますが、量子情報はコピー不可能なので、量子テレポーテーションで転送される量子的な「本人」は、量子力学の原理に守られた、とても強いアイデンティティを持っています。
https://twitter.com/hottaqu/status/1431788277229518850?s=20

このケースのアイデンティティ(同一性)とは「世界に他に存在しない」ということを示しているだけであり、「それが本人の魂と同一かどうか」というものとは全く別の話である。

そもそも元ツイートに関しては「量子情報物理学の立場から答えると、それは本当に同一人物です。」という回答の「量子情報物理学の立場」という部分がマスクされて、「本当に同一人物です」という回答だけが独り歩きしてしまっている印象がある。

そもそも我々のに関しては、科学的に証明されているわけではない(そして今後もされる見込みはない)。

しかし間違ってはならないのは、科学的に証明されていないことと、存在しないことはイコールではない

科学とは第三者によって外部から観測できる現象しか定義することができない。
しかし、あなたの魂あなたの自意識、あなたがあなたであるという確信はあなた以外の誰にも観測できない

我々はみな自分に間違いなく魂があるという確信を持っているが、それを科学的に証明する手段は存在しないということである。

だから、量子テレポーテーションで再現された自分が本当に自分かどうかを事前にそれを確認する手段は存在しない。

例えば他人を騙して実験してからにしようと考えても無駄である。

何故ならば、我々は他人が本当に「意識」があるかを確認する手段を持っていないので、同様に量子テレポーテーションで再現された他人が、本当に本人なのかを判別することは原理的に不可能だからだ。

もちろん、量子テレポーテーションで移動した先にいるのが本当に自分自身の魂を持っているという可能性も0ではない。

何故ならば、「魂」が実際どういうものなのかは誰にも分かっていないので、コピー先に「魂」が移動して同一性が保持されるという可能性否定はできない。

しかし、そうでなければあなたは死ぬ。

答えが分からない扉に飛び込み間違えれば100%の確率で死ぬ賭けと考えれば、どれほど「本人」であるとされても、量子テレポーテーションを使用するのは無謀だという結論になる。

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