今回の話題は原神世界の法則の一つ「摩耗」について
「摩耗」とは天理の成すものであり、テイワットの存在は時の流れとともに知識は消え理性を失うことになる。
鍾離先生の伝説任務2では「若陀龍王」がこの「摩耗」により自身が璃月を守る存在であったことを忘れてしまったのが発端でした。
この「摩耗」については神ですら止めらないものであり、雷電将軍は「摩耗」対策として、肉体を捨てて意識を別次元「一心浄土」に移すという荒業を使っています。
そしてこれは天理——すなわち天理の調停者がこの世界の法則として設定したものである――と当時は考えていたのですが、実はこの天理とは天理の調停者のことではないようです。
天理≠「天理」
まず最初にクンジュのセリフに戻ります。
彼は「摩耗」の説明をするときの彼は天理と表現しています。
そして物語の最後で、鍾離は自身の置かれている状況のことを「天理」が自身にかけた「摩耗」なのかもしれないと比喩表現を行ってます。
この鍵カッコには実は大きな意味があり、スメールの魔神任務でもナヒーダは天理の調停者のことを「天理」と表現しています。
そもそも天理とはそれ自体に意味が存在する単語であり、「自然の道理」のことです。
天理の調停者は英語では「Heavenly Principles」と書きますが、鍾離もナヒーダも「天理」と話す部分はこの単語で訳されています。
しかし、クンジュが天理について語るシーンでは「Natural order(自然の秩序・自然の法則)」と訳されています。
つまり、この時クンジュの説明は「時の流れとともに記憶を失っていくのは自然の道理である」という自然界のごく当たり前の法則について語っているわけですね。
雷電影も、神でさえ魂が摩耗することを「寿命」と表現しています。
散兵が「人形」から「神」に昇格できたことや、風の精霊であったウェンティがバルバトスに昇格できたこと、「博士」の「神でさえ作ってみせる」と豪語する発言からも、「神とは人間とあり方が違うだけの生命に過ぎない」のかもしれません。
そうであれば、たとえ神であっても自然の法則から逃れられないというのは当然のことかもしれませんね。