お代はラヴでけっこう

【漫画感想】「セクシー田中さん」は「登場人物が『物語』ではなく『人間』として尊重される話」だと感じた。これが「改変」が望まれなかった理由だと思っている。

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この記事は、作品の背景に起きた出来事は別として

「『セクシー田中さん』とはどういう話なのか。」
「どうして作者は『原作から改変されること』を拒否したのか」

ということについて個人的な感想を書いていきます。

*当たり前ですが、特定個人に対する誹謗中傷はご遠慮ください。

「セクシー田中さん」とはどういう作品なのか

「セクシー田中さん」は、幼いころから陰気で見目もよくはないために、周りからは雑に扱われ、実際にその通りに生きてきた「田中さん」が、ベリーダンスに出会い「Sali(サリ)」という名で少しずつ成長していく物語である。

「セクシー田中さん」1巻より

一読して感じたのは、セクシー田中さんは「ドラマ」に向いている作品ではないというものだ。

ドラマ的に人気を取るには(一般的に)「物語的盛り上がり」が必要になるが、この作品は人を「物語ではなく一個人として尊重する話」なので致命的に相性が悪いと思う。

ちなみにAmazonのレビューなどでは、「現代日本で女性の生きづらさを描いてくれている」というものが散見されるが、途中まで読み続けていくと、この作品はそのような「男社会vs生きずらい女性」のような対立構造になっていないということに気がついた。
(それも内包しているので絶対的な間違いではないのだけれど)

男側のメイン人物である「笹野」「西野」「信吾」はそれぞれ最初は典型的クズ男のように登場して話が展開されるので、「理解のない男のために生きづらい女性向け作品」と誤解されやすいという構造はあるかもしれないが決してそうではなく、性別に関係ない全対象的な作品である(むしろ男性の方が刺さる描写が多いかもしれない)。

実際に読み進めていくと同調圧力というものは男女関係なく存在しているということをしっかり描いてくれているし、その「理解のない男は、どうして理解のない男になったのか」というところまでやってくれる。

特に信吾の「弱者男性までとは言えないけれど強者になれない程度のレベルでしかない男」の内心の吐露はかなりきつい。

「セクシー田中さん」5巻より

西野は、最初は朱里のことで信吾とサシ飲みを計画したが、彼自身も「弱者男性の悲哀」が分かる過去を持っているので、結局は信吾のためのカウンセリングのような展開になったのはビックリだった。
(西野は社会的には強者男性だが、最初からそうだったわけではないので、「弱い男性」に対する世界の背筋が凍るような冷たさを知っているからだろう)

作者はツイッターで「自己肯定感の低さで生きづらさを抱える人達に、寄り添える様な作品にしたい」と述べていたが、この作品に登場する人物は男女問わず自己肯定感が低い。

「セクシー田中さん」1巻より

なぜ自己肯定感が低いのかというと、登場人物はみなそれぞれに課せられた「属性」に苦しめられているからだ。

「田中さん」に登場する人たちは「雑に扱われてきた」人たち。

「セクシー田中さん」に登場する人たちは、みな「雑に扱われてきた過去」を抱えている。

この「雑に扱われてきた」とはどういうことか?

それは、人を「属性」として見て、その見方から逸脱しないということだ。

この属性で人を見る例として作中では、「妻」は「家に常にいて、自分よりも夫と子どもを優先して家事をするもの」という笹野の女性観が例として挙げられてる。

笙野は、「古い家父長制的近視眼的価値観」を持つという典型的な「属性」を背負った人物として描かれていた。


「セクシー田中さん
」3巻より

「男は~」「女は~」という属性的価値観に終始しているので、「40にもなって娼婦(にしか見えない)の格好をして人前で踊る田中さん」に対して、とんでもなく失礼な物言いをする。


「セクシー田中さん
」1巻より

しかし、笹野はこれだけいけ好かない人物として描かれていても、ある側面では過剰と言えるほど「下心なく親切にできる人物」であるし、実は家庭料理がとても得意な事が判明する。

そのことについて笹野は「これだけ家事ができるなら別に家庭的な女性に固執する必要はない」と言われると、自分でも何故そのような属性にこだわっているのかが理解しきれていない。


「セクシー田中さん
」3巻より

あとで分かることになるのだが、笹野が「嫁とは普通こうでしょ」という「属性」にこだわって人を「人」として認識していなかったのは、彼自身が父親から「浩介」という個人として認識されておらず、「男の子」という属性の押し付けをされたことが発端になっている。

少し大げさな表現になってしまうが、笹野は被虐待児童の心理関係に近い。

笹野個人はものすごく親切な性格だし、無理に「料理が好きで家庭的な女性」を嫁にしなくても自分自身で、家庭的な料理を作ることも可能で、「亭主関白」する必要などないのだが、父親から押し付けられた「属性」に固まってしまってそういう視点で物事を考えることができなかった

笹野は近視眼的で頭も固いし、実際に失礼な人間だが、それはそれとして田中さんは人に親切な気持ちを持つ笹野を始めて「属性」ではなく「人として尊重」する。

当たり前の話だが、我々はこれまでの相手の性格を培ってきた歴史的経緯に関して思いを巡らせることはないのが普通であり、周りの人間が笹野に対して「無礼」「無神経」「古臭いおじさん」と評価することは当たり前かもしれないが、それは決して「それが笹野という人間の全て」として当然に断罪されるべきものではない

啓発本やSNSなどでは、よく「言葉ではなくその行動がその人の真実」という論説がもてはやされるが、実際は行動がそのままその人の真実とは言えないし、そういった近視眼的な視点で人を断罪したくはないという作者の気持ちが凄く伝わってくる。

この続きが読みたかった

個人的には、一番刺さったのが信吾の話だった。

進吾はチャラいナルシスト風の男子で、自分に好意を持っている朱里に対して正面から向き合わずいい加減であいまいな態度を取っている。

「セクシー田中さん」1巻より

朱里は信吾のことが好きなのだが、信吾がそういう態度を取ってくるため一歩踏み込むことができないでいたが、田中さんと関わっていくうちに中途半端な関係を続けているのが嫌になり、関係を断ち切ることにした。

しかし、そもそも信吾がそういう態度になったのは、彼が朱里の求める「結婚という契約」に必要な条件を満たしていなかったからだ。

信吾は朱里の求める「契約条件」を満たしていないので、彼にできる責任ある行動とは責任を取らないことなのだが、朱里はそのような「男性が女性に対して感じる社会的な責任感の重さ」を理解できていないので、彼の行動は「自分に向き合ってくれていない」と感じている。
しかし、信吾の視点では向き合っているからこそ不誠実(に見える)な行動になってしまった。


「セクシー田中さん
」5巻より

じゃあ、そもそも一回すら手を出すなと言われるとぐうの音も出ない話ではあるが、この辺の問題解決は恐らく8巻以降の展開で深く掘り下げられるはずだったと思われる。
(そもそも恋愛感情があるのに、今の時点で条件を満たしていないならとすっぱり手を引けるようなものかと言われると、自分に置き換えても厳しいよなあとなる・・・)

未完となってしまったので中途半端な結末になってしまったのが重ね重ね残念だと感じる作品だった。

作者はどうして「改変しない」ことを条件にしたのか

先に書いておくが、私は必ずしも「原作の改変がそのものが悪」だとは考えていない。

漫画とドラマやアニメ、映画は表現方法が違うし、長さが一定ではない漫画作品と違い映像作品は尺の問題も出てくる。

ドラマ「セクシー田中さん」が問題になったのは「改変しないことを条件として提示されてそれが守られなかったこと」という点に尽きる。

さて、そもそもどうして作者は「改変しないこと」を条件に出したのか。

それはこの作品が「登場人物を『物語』として『消費』される存在ではなく、『人』として大切にしたい」と考えていたからではないか。

少なくとも、「田中さん」は作品に「尊重」というワードが存在しているし、「人」とは一部分の側面だけで断定したり、切り離したりできるものではないというが伝わってくる作品だ。

しかし、「話の展開のために都合よく漫画から改変されるキャラ」が登場すること自体がこの物語のテーマと真っ向から反している。

「漫画は漫画」、「ドラマはドラマ」と割り切れたらいいのだが、例えばハリー・ポッターでマルフォイ役を務めたトム・フェルトンが作品外で誹謗中傷を受けたように、「作品は別物」として完全に割り切ることは人間には難しい

それに原作未読の人にとっては「ドラマの笹野」が「セクシー田中さんの笹野」とイコールで結ばれる結果になるわけで、キャラを「尊重」する作者は「その解釈」が広まっていくのが好ましくないと考えたのだとしたら、こういう条件を付けて脚本に異を唱えるのも分かる気がした。

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