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【ダークソウル考察】アン・ディールの求めたものとシャナロット

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ダークソウル2に登場する重要人物、原罪の探究者ことアン・ディール。

彼は人に定められし因果を超えるために、様々な非人道な実験を行っていたが結局は果たせずにその道を終えてしまいました。

さて、彼が因果を超えるために最も重要視していたと思われるのは竜の研究です。

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因果を超えることを期待し、緑衣の巡礼を作り出しましたが彼女は失敗作であり因果を超えることができませんでした

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では、なぜそもそもアン・ディールは因果を超えるために竜の研究に固執していたのでしょうか
そして彼が緑衣の巡礼に期待していたものとは何だったのでしょうか。

それにはまず、竜とはなんぞやということから話をしていきたい。

アンディールは因果を超えるために、複数の挑戦を行っていたと思われる。
ここに書くことはそのうちの一つでありアン・ディールの行いの全てではない。

竜と仏教

さて、ダークソウルにおける存在は基本的に複数の概念を持っています。

よく挙げられるのが「火」には「燃える」「熱い」「生命」「神」という複数の概念があり、「闇」には「冷たい」「死」「深淵」「人間」という概念があるというものです。

では「竜」においての概念とはなんなのかというと、パッと思いつくのは「不滅」「朽ちない」「強大」「超越」あたりでしょうか。

しかし、恐らくアン・ディールが求めたものは竜の持つ要素のうち「解脱」であると思われます。

解脱とは仏教において、煩悩に縛られていることから解放され、苦を脱して自由の境地に到達することとされています。

なぜ、ここで仏教と解脱が出てくるかというと、元々古竜と仏教には深い結びつきがあることが示唆されているからです。

DS3において登場する竜信仰の聖地「古龍の頂」に向かうためには、イルシールにおいて座禅のジェスチャーを行う必要があるのは、古竜が仏教の側面を持っている証明であり、またそのエリアが賽の河原をイメージしているのも同様の理由でしょう。

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ジェスチャー「古竜への道」は我々の良く知る「座禅」である

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古龍の頂は賽の河原イメージが含まれている

また、この頂に登場する霊媒師の持つ杖は托鉢の杖と呼ばれるものです。

炊く八の杖

托鉢とは仏教における修行の一つで、この物入れを用いて修行僧は功徳を積みます。

この杖は、蛇人が敵対NPCを召喚して自らの助けとする杖ですが、托鉢の修業は他者から助けを得るための行為であるということもイメージしていると思われます。

これらのことから、古竜には仏教のテーマが割り当てられていることが分かりますね。

さて、ダークソウルにおける竜は元々は煩悩を持っていなかった

宮崎氏がダークソウルの世界観を構築するうえで、1作目の時点から竜と仏教を結び付けていたことはデザインワークスから読み取ることができます。

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ダークソウルデザインワークスより

この「現存する生き残りの古竜は生命の毒(感情)に侵されている」というセリフから、逆説的に元々は感情に侵されていなかったということが分かります。

感情という生命の毒が不滅の竜を侵して貪食ドラゴンを生み出したことは仏陀の説いた大乗仏教においては人間の苦しみの根源である三毒の一つ「貪欲」をイメージしているのでしょう。

アン・ディールが求めたものは、この原初の古竜が持ち得ていた解脱の境地だったわけですね。

ダークソウルにおける人間は、本質的に不死であり永遠に生きる存在です。

そして、仏教においても現実世界に生きている我々人間は本質的に不死なのです。

どういうことかというと、仏教における人間は死しても再びこの世に転生し、無限に生きる輪廻転生の業に囚われた存在であり、それをであるとする思想です。

そこから逃れるためには、人間の苦しみの根源である煩悩という生命の毒から逃れて解脱の境地に至ることは因果を超えるため解となるわけですね。

アン・ディールの研究

さて、アン・ディールは因果を超えるために、館にこもり数々の非人道的な研究を行ってきたが、その研究の中でもは彼が第三の目に対して探究心を持っていたことが伺えます。

術師の仮面

この第三の目とは、仏教においては白毫と呼ばれ悟りの境地に至った仏陀(如来・菩薩)にのみ付けられ、明王、天部、童子などには付けられません。

またヒンドゥー教においては最高神シヴァの額についていることで有名であるが、この目からは欲望を焼いて灰にする閃光を出すという逸話があり、転じて欲望を断つことを象徴する目とされているます。

つまり第三の目とは欲望から解放された解脱の象徴なのです。

他にもアン・ディールの館には額に目を持つオーガが檻に閉じ込められており、この単眼のオーガもまたアン・ディールの研究の成果だったのかもしれません。

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古竜と第三の目

さて単眼と言えばダークソウルのボス黒竜カラミットがいます。

このカラミットはダークソウルにおいて唯一生き残っていた原初の古竜になります。

黒竜の大剣

このカラミットはその特徴的な橙の瞳の印象から単眼の黒竜と呼ばれているが、実際には左右に目があります。

QkF_74Evのコピー

また、ダークソウルボードゲームに登場したカラミットのフィギュアでも小さな目が刻まれていることが確認できます。

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こちらは海外の有志により、より分かりやすく着色されたもの

つまり、カラミットの中央の目は第三の目そのものであるということが分かります。

またこのカラミットを信仰していると思われる2の黒竜騎士の兜にも、左右の目と第三の目を模している意匠があります。

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この生き残った原初の古竜はこのカラミットのみですがゲーム上で登場する竜たちの中で、他にもう一体原初の古竜である可能性を持つ竜がいます。

それが「古の竜」です。

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この竜はシャナロットに「古より在りし竜」と呼ばれています。

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カラミットの説明文によると朽ちぬ古竜は他には存在しないはずです。

しかし、祭祀場にいる古の竜は、アン・ディールによって作られたまがい物であり、本物の古の竜は輝石街ジェルドラの最奥で死骸となっています。

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よって、この古の竜が朽ちぬの古竜の一体であったとしても矛盾しません。

そして、この古の竜もまた額に白毫(第三の目)を持っています。

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E3MunRDUYAg8qbRのコピー

実はゲーム内のモデリングではこの白毫が存在していますが、実際のゲーム上では未表示となっています。

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また発売前のゲームトレーラーでも第三の目を持つ竜が存在していましたが、こちらも没になっています。

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では、本来あったはずの第三の目は何故失われてしまったのでしょうか?

シャナロットはなぜ”失敗作”なのか

緑衣の巡礼は定められた因果を超えようとした者に作られましたが、彼女は失敗作でした。

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しかし、どう「失敗作であった」のかは教えてもらえずとも推測はできます。
アン・ディールの求めていたものを考えるとそれは明白です。

アン・ディールは人が因果を超える可能性の一つとして、因果の生まれる以前より存在していた竜に着目しました。

そして館の研究から、その中でも竜の持つ解脱の境地について深く傾倒していたことが伺えます。

すなわち、彼が目指していた因果を超える方法とは、人と竜を組み合わせることで生まれながらにして第三の目を持つ解脱した人間を作ろうとしていたのではないかということです。

端的に言うと彼は感情の持たない人間を創造しようとしていたのでしょう。

しかし、彼は第三の目を作り出すことができなかった

シャナロットは第三の目を持っていません。

また、彼が作り上げた偽りの古の竜も第三の目を失ってしまっている。

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本来あったはずの第三の目が描写されなくなったのは、彼が第三の目に傾倒していたことと、それが失敗に終わったということを示唆しているのです。

緑衣の巡礼にはシャナロットという名前を持っていますが、彼女は名を持たされずに生み出された存在でした。

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感情を持たない存在であることを期待された彼女にはそもそも名前が必要なかったということです。
そのため、彼女には名前を付けられませんでした。

仏教においても解脱の境地に至ったブッダには名前がありません

ブッダとは「悟った人」を意味する尊称であり、本当の意味での名前ではない。
また有名な「ゴータマ・シッダルタ」の名は後付けと言われており、実は本名は明らかになっていない。

しかし、自身が言うように彼女は失敗作でした。
感情を持って生まれてしまったからです。

DSアイテム1枠のコピー

彼女はダークソウル2に登場するNPCの中で、攻撃されても反応を示さない感情の薄い人でしたが、アン・ディールの求めていたレベルとは程遠いものです。
何より最も持ってはいけなかったはずの自由への憧憬を持ち合わせしまいました。

こうしてアン・ディールの思惑は頓挫してしまいましたが、そもそもこの計画は最初から上手くいくようなものだったのでしょうか。

ダークソウルは人を竜に変える竜頭石・竜体石というアイテムが存在しますが、変化できるのは人とも竜とも呼べない歪な形です。

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宮崎氏は竜体石について「人が竜になろうとする無理」と発言していますが、どれだけ人が竜になるために欲を捨てようとしても「竜になりたいという欲」が存在してしまいます。

これは仏教においても、欲を捨て解脱しようとしても「解脱したいという欲から逃れられない」という永遠のテーマになっています。

「人間性が人のみにある」と言われるように感情(生命の毒)を持っているからこそ「人間」なのです。

彼の実験が成功に終わっていたとしても、それによって生まれたものが本当に人と呼べるものなのかどうか、甚だ疑問ですね。

余談:無名の王

古竜の頂の最奥に鎮座するエリアボス無名の王は、このエリア自体が仏教のテーマにしていることを考慮に入れると、彼はブッダのコンセプトがあると思われます。

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王族でありながら、家族も名前すら捨てたことと、その反面に友を大事にするというあり様はブッダと全く同じです。

ある日、お釈迦様の側近であるアーナンダ尊者が、「仏道というのは、たいへん頭の良い、自分を指導してくれる、仲の良い友人がいるならば、その友人の力で道の半分を達成できるだろう」と考えました。そして、良いことを考えついたからお釈迦さまにお話ししようと思って、そのことをお話ししたのです。
するとお釈迦さまは「その通りではありません。仏道は、善友に巡り会えたならば完全に成功しますよ。半分ではありません」とおっしゃったのです。
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-085/

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