前回、量子テレポートの記事を書いたのだが、その時は人間は意識を持った存在であるということを前提として記事を書いた。
「そんなの当り前じゃないか」と思われるかもしれないが、実はその当たり前は当たり前ではないかもしれないというお話である。
人間の脳はただの物質にすぎないという事実
当たり前の話だが、脳細胞というのは物質の塊でありそれ以外の何物でもない。
人間は脳を特別視してしまいがちだが、脳細胞が他の物質とは違う何か特別なものということは全くない。
脳は数百億を超える大量の脳細胞という物質で出来ており、電気信号を用いて情報をやり取りして人間を動かしているが、どれだけ脳の構造を観察研究しても、そこで見つかるのは機械的な作用でしかなく、なぜそのようなただの物質が人間の意識を生み出しているのかという説明は全くできない。
この、物質に電気信号で指令を出すという構造はコンピューターにとても近い。
例えば、とても性能のよいCPUを積んだアンドロイドにとても優秀なAIを組み込み、「これは素晴らしい性能なので人間そっくりに振る舞うことができます」という説明には納得できるだろう。
しかし、「これは素晴らしい性能なので人間と同じく意識を持っています」と説明されても、「いや、それはないでしょう」となるのが普通である。
しかし、人間の脳で起きていることはこれと同じことなのだ。
人間の脳細胞はとても優秀で素晴らしい物質であるが、物質は物質に過ぎない。
なぜただの物質に過ぎない脳細胞に電気信号が流れるだけで意識が生まれるのか全く科学では説明不能な領域となっている。
受動意識仮説
とはいえ、これはあくまでも我々が意識を持っているという仮説を前提にするから説明不能なわけで、実は我々が意識を持っているというのは脳の生み出した錯覚であるに過ぎないという説であれば説明可能になる。
つまり我々の脳は物質であり機械的な存在というのは認めざるを得ない事実であるわけだが、そこに意識が存在するということ自体が誤りで、人間とは行動の全てが脳の作用により動かされている受動的な存在であり、意識というものは脳の生み出した錯覚に過ぎないという説を受動意識仮説という。
例えば我々がジュースを飲みたいと思えば、まず身体を立ち上げて右手で冷蔵庫を開き、左手でジュースを手に取るという動作を行うのだが、我々はこれを自分の自由意志で行っていると思っている。
しかし、実際には意識がジュースを飲みたいと思う前に脳の電気信号が働いてジュースを取る行動を取らせていることが分かっている。
リベットの実験は、脳内の無意識的な過程が意志的な動作を真に開始させるものであって、それゆえに自由意志は動作の開始には役割を果たしていない、ということを示唆した。この解釈に基づけば、もし、ある動作を行うという欲求を意識的に自覚するより以前に、無意識的な脳内過程が既にその動作を開始するための準備を済ませているならば、意志形成に果たす、意識の因果論的な役割はすべて排除されてしまう。たとえば、スーザン・ブラックモアの解釈では「意識的な経験が生じるためにはある程度時間を必要とし、それは物事を起こすことに関わるには遅すぎる」
ベンジャミン・リベット(Wikipedia)
つまり人間に自由意志があるというのは全くの幻想であり、ただ単に全ては脳神経の決定によって受動的に動いているということである。
このベンジャミン・リベットの実験結果ががまとめられた著書は脳科学に大きな波紋を広げた。
しかし、リベット自身は「人間に自由意思がない」という論には懐疑的であり、実験により、人間の意識より先に脳が作用すること認めつつも実験が正しいとは認めつつも、人間の意識は脳による作用を拒否する権利があるとして自由意志を肯定している。
この点に関しては長文になるので気になる方は下記の記事を参照して欲しい。
しかし、このリベットの説は実際にはかなり苦しい。
そもそも彼は人間の自由意志で拒否したことそのものが脳の作用ではないのかということを否定できていないことと、仮に人間の意思が脳のプロセスとは別に存在しており、それが物質である脳に作用するというのならば、それは超能力の領域になってしまう。
そしてリベットが元々人間の自由意思を肯定する理由として、人間に自由意思がないというならば、犯罪を犯してもそれは脳の責任であり、本人の責任ではないことだから罪には問えなくなるからダメだというもの。
たとえば、精神運動性のてんかんの発作やトゥレット症候群(社会的に眉をひそめられるような言葉で罵り叫ぶ)の患者の行為は、自由意志に基づくものとはみなされません。それならばなぜ、健常な人物に無意識にある事象が発生し、それがその人自身の意識的なコントロールも及ばないプロセスである場合にも、それはその人自身が責任を負わなければならない自由意志に基づく行為だとみなされなくてはならないのでしょうか?
しかし、事実かどうかであることと社会的な問題としてどうかとういうのは全く無関係であり、はっきりいえばこれは詭弁でしかない。
とはいえ、人間の意識は錯覚に過ぎないというのは普通には受け入れ難いものである。
我々が感じている愛や友情や憎しみや悲しみはただの脳の幻想だなんてとても信じれないだろう。
かつて、どこかの芸能人がうつ病になって悩み苦しみ最終的に精神科医にかかり薬を飲んだらコロッと治ってしまった。
このことについて「あれだけ悩み苦しんだことが薬一つで消え去ってしまうだなんで、俺の悩みってなんだったんだ」と述懐した記事を読んだことがある。
(記事元を失念してしまったので知っている人がいたら教えて欲しい)
脳というものは物質的なものなので、当然物理学の方程式によって動いている。
よって意識や感情は物理学で操作可能なのは必然なのだが、さりとて我々には「自我があり魂があり意識がある」という強固な信念があるのも事実である。
そもそも、この世界に、物理学以上の存在を認めないのであれば、世界のすべては、物理学の方程式にしたがって動く、機械的な存在にすぎないのだから、当然、脳も、意識も、機械的な存在である、ということを受け入れざるを得ないのは、当たり前の話なのだ。
逆に、もし、どうしても、人間の尊厳を求め、機械的な意思を否定したいのであれば、既存の物理学以上の何か、イシキ、霊体、魂などの未知の存在が、物理的な作用を起こすこと(サイコキネシス)を受け入れるざるを得ない。
どっちを選ぶかは、あなたしだい……。
という選択も、脳が決めたことにすぎない……
という考えを選択したのも、脳が決めたことに……
―――哲学的な何か、あと科学とかより
果たして我々に意識はあるのかどうか……
この決着はまだついていない。