ちょっと前にフォロワーさんと「放浪者はメンヘラではないか?」という話をしたことがあった。
切っ掛けとしては、彼のチーム加入ボイスからだ。
だが、個人的にはそういう枠に当てはまるキャラではないと感じたので、彼の行動理念や思考回路について自分の感じたことを書いてみる。
「散兵」は「人間」になりたかったのか「神」になりたかったのか
散兵に関しては、以前に「彼は本当は『人間』になりたかったのではないか?」と考えたことがある。
しかし、魔神任務スメール編の散兵は神であることに非常にこだわっているように見えた(神の心に対する執着などから)。
ところが、Ver3.3で追加された魔神任務間章3では、やはり「彼は人に憧れていた」のだという話が出てくる。
この辺りが一見すると矛盾しているように見えて、本人の求めているものがいまいち捉えられなかった。
だが、ストーリーを何度か見直していくうちに、散兵は「人間」と「人形」の両方の性質を併せ持つ存在ではないかと思うようになった。
そう思ったのは、間章3幕の最後で語った「貸し借り」に関する彼の意見からだ。
思い返せば彼のエピソードは「恩を受けたら返すし、仇と感じれば仇を返す」という鏡返しのようなものがほとんどだった。
自分が感じたのは、この辺りに彼の「人形」としての性質が現れているのではないかということだ。
本当の意味で彼には「心がない」のではないか。
「心のない人形」である彼は、その代わりとして人間の行動・言動をそのまま素直に受け取って反映しているように思う。
しかし、それと同時に彼の思考感覚は非常に「人間」に近い。
個人的に、この涙がこぼれたという逸話は、試作品として作られた彼は、創造主の意図を超えてあまりにも人間に近く生まれてしまったが故に脆い人間=赤子として産声を上げたメタファーではないかと思っている。
そもそも彼は雷電影を『母』として認知しているおり、この点からも彼の自意識が「神」よりも圧倒的に人間寄りであることを示している。
同じように、影に作られた「雷電将軍」は少なくとも彼女のことを「母」と認識しているようには思えず、真に「人形」であればこの認識には至らないだろう(「散兵」と「雷電将軍」の違いについては別記事を書く)。
ちなみに「器物としても人間としても」というフレーズに似たものは、散兵の過去を綴った聖遺物「華館夢醒形骸記」にも出てくる。
人間と人形の狭間にいるというのが彼の基本路線なのだ。
さて、雷電影により封印された「人形」は偶然秘境に訪れた人間に発見される。
当初の彼はまさしく「白紙」であり、何も知らないままにたたら砂の人々に「傾奇者」と呼ばれることになった。
この人々は真に善良であり、彼を「家族」として扱った。だから傾奇者も善良であり、彼らを家族と認識している。
そして、周りに合わせて自分も「人間」になりたがった。
元々「心の容器」として生まれてきた、傾奇者は本能として「心」を欲しがる性質が刻まれているが、傾奇者が見てきた心は全て善良なものであったからこそ、彼は人間になりたかったのだ。
しかし、「博士」の介入によりこの蜜月は終わる。
たたら砂の炉心に異常が発生し、人々は病に倒れ始めた。
危機に陥ったたたら砂を救うために、その恩を返そうと傾奇者は海を渡るが、すれ違いの結果「母は自分を拒否し、幕府はたたら砂を見捨てた」という怒りを持ってたたら砂に舞い戻る。
だが、そこで彼を待っていたのは更なる裏切りだった。
(「博士」の扮する)エッシャーによると、責任者である丹羽は罪を恐れて出奔していたという。
彼は傾奇者に装置を渡して炉心を停止させたが、その装置は丹羽が罪のない人間の心臓を材料に作ったものだという。
既に「善良」という性質を写し取っていた彼は、このことに激怒し穢れた心臓を抜き取って捨ててしまう。
こうして「家族」から裏切られた傾奇者は、再び稲妻を彷徨い今度は、病を抱えた子供と出会ってしまった。
だが、またしても彼は「裏切られ」てしまう。そう、またしても。だ。
子どもは彼に共に暮らすことを約束したが、その約束は果たされなかった。
病に侵されていた少年は元より余命幾ばくもなく、約束は果たされなかった。
本来であれば、このような出来事は仕方のないことと受け入れられるものなのだが、「心のない人形」である彼にとって「約束は約束」なのだ。
そして、これまで生で得た傾奇者の結論は「人も神も悪である」だった。
「心のない人形」である彼は、自身の身に起きたことをそのまま自身の性質に変換してしまう。
これまではたたら砂の人々のおかげで「人間=善良」という認識であったが、数々の悲劇により彼は「世界とは残酷で邪悪なものである」という認識に変化してしまった。
「世界が悪」であるのだから、彼もまた「悪」にならねばならない。
だから彼は悪一文字を背負うのである。
そして「神」へ
そんな彼に転機が訪れた。
図らずしも、なんと自分の「母」である「雷の神の心」を手に入れて、そしてスメールにおいて本当に真の神になってしまう。
この時の散兵は非常に機嫌がよく、再会した旅人はその態度に驚いていた。
これは元々「心のない人形」だった彼が「七神の心」を手に入れたことによりその性質がより「七神」に近くなったのではないか。
七神は人類を統治し、更に「幸せな暮らし」を描くことを求められる。
最終的に散兵は旅人に敗北し、世界樹のもとで眠りにつく。
だが、目覚めた彼を待ち受けていたのは、世界の全てがひっくり返るような衝撃の真実だった。
真実の扉
世界樹の片隅に残された記憶から、スカラマシュはかつて自分を裏切ったと思った刀鍛冶らは、「博士」の陰謀により貶められた無実の人々だったことを彼は知ってしまったのだ。
彼は、かつて自身を裏切った(と思い込んだ)丹羽——刀職人へ復讐するために、その子孫たちに罠を仕掛け家系を没落させてしまった過去を持っていた。
しかし、丹羽が裏切っていなかったであれば、彼が行った「復讐」は完全に筋違いのものになる。
自身の行為こそが「仇」であったことを知った彼は、それを返さなければならない。
だから、散兵は旅人に歴史改変の可能性について質問したのだ。
旅人の反応からその答えを知った彼は「散兵」——そして「国崩」であった自身の存在を消すことで、自分が過去に行った間違った行為を消そうとした。
――しかし、(スカラマシュは勘違いしてしまったが)世界樹による歴史改変とは、一度成立した過去が覆るようなものではなかったのだ。
テイワットの歴史から「散兵」「国崩」の存在は消滅したが、辻褄が合うように別の人物が雷電五箇伝に報復したのだとされてしまった。
結局のところ彼の行いは無為に終わってしまったが、再びスメールに舞い戻った旅人に目の前に、スカラマシュが現れたのだ。
だが、そのスカラマシュは「散兵」であったことも「国崩」であったことも忘れた白紙の状態に戻っていた。
さて、事前に公開されていた放浪者のストーリームービー「灰燼」では、「傾奇者」がたたら砂の子どもから、おもちゃの人形の話を教えてもらうというエピソードが挿入されている。
これは現実に存在する寓話「しっかり者のスズの兵隊」が元ネタであり、本来は感情を持たないはずの人形が感情を持ってしまったという話である。*
*寓話なので、絶対的な解釈は受け手次第です。
物語の最後に兵隊は子どもに飽きられて暖炉にくべられ燃えてしまうが、その翌日に燃えカスからハート型の小さなスズの塊になって終わる。
わざわざこのエピソードを放浪者に持ってきたのは、この「燃えてしまった人形」は、まさに「世界樹から消滅した散兵」と対比させるためではないかと感じた。
強い決意を持って、燃えてしまった「散兵」という人形の燃えカスから見つかった小さな心の形をした灰が「放浪者」なのだ。
物語の最後で、旅人は彼に新しい「名前」をつける。
そう名前こそが新しく生誕した者への最初の贈り物なのだから。
だが、忘れてはならない。
例え世界樹から消え去ってしまっても、「傾奇者」も「散兵」も「国崩」も本当に「なかったこと」にはならないのだ。
「人形」と「人形が燃えた灰」は、姿が変わろうとも、実は「同じもの」であったことに変わりはない。
例え、コップの水を誰が飲んだのか誰も見ておらず、誰も覚えていなくてもコップの水が飲まれたという事実は消え去ることはないのだと。
しかし、過去は変えれなくとも未来の可能性は、樹木のように無限に枝分かれしている。
彼がこれから成すことこそに眼差しを向けなければならない。