お代はラヴでけっこう

【崩スタ】生命体はなぜ眠りから覚める必要があるのか――あなたの人生の「主人公」は「あなた」しかいないことを知って欲しい

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*この記事はスターレイルVer2.2までのネタバレを含んでいます。
大部分が一個人の意見と感想にしか過ぎません。

この記事では、私がVer2.2のストーリーとサンデーの理想や開拓者たちの信念について感じた個人的な意見を書いていきます。

スターレイルVer2.2を最後まで終わらせたプレイヤーは、今回のストーリーは「人はなぜ生きるのか?」という人生における問いが根底にあると感じたことでしょう。

これはスターレイルのテーマというよりも、ホヨバースが作品を通して人々に伝えたい人生哲学のようなものであると解釈しています。

特に、この現代において「人生において生きている意義が感じられない人々」にとって読んで欲しい内容として作られていると思っています。

そもそもこの話の「テーマ」は何なのか?

ホヨバがこのストーリーで書きたかったのは「人間賛歌」でしょう。

人間賛歌とは、人としての在りようや生き様を讃えるテーマですが、間違えてはならないのは、それは必ずしも成功だけを意味しないことにあります。

たとえ失敗したとしても、その人が自分の意思により挑戦し、挑むものであればそれは尊いものだということです。

ピノコニー編では、それぞれのキャラクターがそれぞれの生き様について思い悩みます。

「人はなぜ生きるのか」

それは人間にとって永遠のテーマでしょう。

人は自分の意思に関係なく生まれ、望もうが望まないが必ず死ぬし、それは星神であっても例外ではなく「永遠」は存在しない

「人は必ず死ぬ」

この世の中で一つだけ絶対の真実を選べと言われれば、これほど相応しい言葉はないでしょう。

最後は絶対に死ぬと分かっていて、それでもなぜ人は生きるのか

アベンチュリンは睡眠は死の予行演習と言います。

人々は眠る前に、その日にあった出来事を思い返します。

これを死に例えるのであれば、人は死ぬときに自分の人生を振り返るということです。

確かに人生の結末は「死」が運命づけられている。

しかし、それ自体は重要な事ではない

重要なのはあなたその結末に至るまでにどのような道を歩んだのかということです。

貴方の人生は世界に影響を与えたかもしれないし、与えなかったかもしれない。
残された人々の心に影響を与えたかもしれないし、与えなかったかもしれない。
そもそもそのようなことを気にする人もいれば、気にしない人もいます。
「悔いがあった人生」と思う人もいれば、「良い人生だった」と思う人もいます。

自分が死ぬときに人生の意味をどう感じたかは自分次第であり、例え死という結末が決まっていたとしても、その意味は人によって全く違う風景になるということです。

あなたが「永遠に夢の世界」に入ることを選択してもそれはそれでいいのです。

しかし、それは彼らの決定によるべきものであり、その決断を強制するべきではないということです。

サンデーはなぜロビンを「裏切った」のか

サンデーの演説で一番インパクトがあったのは、「週休7日制」「永遠の日曜日」でしょう。

これはあまりにもインパクトが強すぎる。
僕もサンデー様の配下に付きたい。

ピノコニーの「調和」を揺るがす「黒幕」についてロビンは「私たちの約束があるから兄だけは疑わない」という手紙を残しています。

この私たちの約束とは、「誰もが幸せに暮らす楽園」を作ることです。

兄さまが自分との約束を違えるはずがないので、ロビンは黒幕がサンデーであることは絶対にありえないと考えていました。

サンデーは誰もが安らぎを得られる永遠の楽園を望んだ。

ロビンは誰もが幸せと喜びを得られる楽園を望んだ。

二人が見ている景色は同じであるとロビンは錯覚し、そのため「黒幕が兄さまであることはあり得ない」と考えていましたが、実際には二人は根本的にすれ違っていました。

それは、サンデーの人生観がロビンとは決定的な面で異なっていたからです。

二人がすれ違う最初のきっかけはサンデーとロビンが幼いころに拾ったハーモニーピジョンについてです。

まだ小さな雛鳥だったそれは、このまま放置すれば確実に死ぬことが分かっていました。

そこで二人は夢の主に頼み、鳥かごを用意して自力で飛べるようになるまで世話をして、そして外の世界に放ちます。

しかし、この鳥は何度飛ぼうとしてもうまく飛べず、最後には羽が折れて苦痛の死を迎えます。

ロビンは、残念な結果になったとしても、それでも飛ぼうとした意志を尊重しましたが、サンデーはそれでもこの鳥に生きていて欲しかったと考えていました。

このピジョンの物語がサンデーの深層心理を反映しているのは明らかです。

「人が空を飛ぶことを鳥の天性だと思うのは、地に落ちて死んだ鳥を見たことがないからです。」

鳥とは人間であり、空は未来を表しています。

つまり、彼がこの時言いたかったのは、「人が自分の望む未来を掴めると信じてしまうのは、未来を掴めずに死んだ人を見たことがないからだ」ということです。

サンデーは雛鳥にただ生きていて欲しく、そして「生命体の生存」は未来へ進むことよりも優先するべきものだという信念を持っていた。

ロビンは、例え結果が失敗に終わったとしても空に向かおうという決断が尊いものだという信念を持っていました。

サンデーとロビンのすれ違いは、人間というものに対する希望の差です

ロビンは人間を信じた
サンデーは人間を信じれなかった

サンデーは実はロビンを「裏切って」いません。

彼は「楽園を作る」というロビンとの約束を守るために「調和」という誓いを破ったのです。

「約束した人が誓いを破ることで契りを守ったとしたら」とはサンデーのことでしょう。

実はサンデーは言っていることとは裏腹に、実際には人々に「自由」を認めていないということです。

このことを端的に表しているのが、「エナの夢」に囚われた人々にクロックトリックを行っても、その心境を「満足」から変えることができないということです。

サンデーの考える楽園では誰もが文字通り「満足」を得るだけの人形になり、それ自体が「幸せという名の監獄」になります。

これは人々がどのような感情を持つかを決定するという主体性を奪っています。

「満足」しているならば、確かにそれは幸せかもしれません。

だが、本当に悲しみは、怒りは、恐怖は全てが「よくない感情」なのか?

例えば、私たちは近しい人々が死ぬと悲しみを覚えますが、それは人が人を大切にする思いがあるからです。

サンデーの世界では故人を偲ぶ悲しむ自由すら否定されます。

しかし、彼はそれを問題と思っていません。

かつて彼は傷ついたハーモニーピジョンを拾った際、その子についてどうしても生きていて欲しかったと思い、ずっと鳥かごに閉じ込めておくべきだったと後悔しています。

何故なら彼は人間を信じていないため、自由を与えたところで自身が望む道の終点に辿り着くことができないと考えているからです。

サンデーはかつて「調和」の告解師として、様々な人々の懺悔を受け入れてきました。

そこで彼は「調和」として出来うるだけの慈悲と恩寵を与えたのですが、しかし必ず人々は彼を裏切ったのでした。

これらの出来事を通じてサンデーは、ほとんどの人間は弱者であり、そしてこの弱者と言うのは単に力が弱いという意味ではなく、その心の弱さのことを指しています。

人々は自分を善良だと思い込んでいるが、サンデーはその心の奥底には欲望が渦巻いていることに気が付きます。

弱者はその心の弱さゆえに邪な欲望をコントロールすることができないので、自由意思を認めると必ず不幸な結末を迎えます。

そのような無駄な自由を与えるよりも、ただ生存することを目的とする方がより多くの人々を救える合理的な選択です。

強者は弱者を搾取し、弱者はその弱さから欲望に負ける。

だから、彼が目指した「誰もが幸せを享受できる永遠の楽園」を実現するためには、サンデーのみが唯一の強者となり、絶対的な「秩序」によって支配する必要があると考えているのです。

それに対して開拓者たちは、「人生とはそれぞれが自分の意志で自分の道を決める勇気と責任を持つ必要がある」という信念を持っています。

そのことを知っているから、ミーシャは最後まで開拓者に強制をすることなく去って行きました。

サンデーの対比としてのホタル

この命題に関して、サンデーの対比となるのがホタルです。

ホタルはグラモスの兵器として生まれ、「サム」としての役割だけを期待されていた。


更に兵器としての遺伝子操作の影響によりロストエントロピー症候群——治療不能の不治の病に侵されている。

彼女にとって、「治療ポッド」に入る必要がなく「ホタル」として生きることができるピノコニーはあまりにも甘美な夢だった。

「夢から覚めることが怖い」

自分の運命が決まっていることを知っているホタルにとってこれは偽らざる本音です。

しかし、それでも彼女は「夢から覚める」ことを選んだ。

それは、彼女が「人に生かされる」と「自分で生きる」のは明確に違うことを知っているから。

生存こそ最も尊ぶべきと考えているサンデーにとって、死という結末が迫っているホタルは「弱者」です。

しかし、彼女はこのサンデーの言葉を否定します――自分は「弱者」ではないと。

何故なら、そもそも「弱者」かどうかを定義することは他人が決めることではないし、彼女は自分自身の意志でどのように生きて死ぬかを選択したからです。

サンデーの「楽園」は必ず破綻する

サンデーの楽園の最大の問題点は、実際には「夢の楽園」は彼自身が思っている以上に完璧な世界ではないということです。

神ではない存在である彼が統治する「夢の楽園」には欠陥が生じるので、今すぐではなくともいつか人々はそれが夢であることに気が付きます。

そして、夢であることに気が付いてしまえば、人間の現実を求める本能により、夢に浸ることは不可能になります。

夢であることに気が付きながら、夢に囚われてしまうのは、恐らく永遠に続く拷問のようなものになるでしょう。

ブートヒルがサンデーのことを地獄への道は善意で舗装されていると評価したのはそのためです。

結局のところ、安易に自分の「選択」を他者に委ねるというのは、その他者が誤った場合取り返しが付かないことになるということですね。

結論

「生命体は何故眠るのか。それは夢から覚めるためだ」

あるナナシビトはその答えをこのように定義しました。

これは私の解釈では「人は確かに弱く、現実から逃避することもある。しかし、それは永遠ではなく、いつか自分自身の力で立ち上がれる強さを皆が持っている」という意味です。

ドリームリーフでロビンは、孤児たちとそれを支える老婆と出会います。

彼らは、貧しく、目が見えず、心に、身体に問題がある「弱者」でした。

夢の世界の彼らは現実のハンデを気にすることなく生活が可能なのですが、ロビンは彼らが代償として夢の世界に溺れてしまうのではないかと心配します。

それを老婆はそれを明るく笑って否定しました――夢には意味がある。しかし、それは全てではないと。

夢の世界は、雛鳥が羽を休められる安息地であり確かに大事な場所です。

しかし、例え困難が待ち受けていても現実世界での未来を選ぶことはそれ以上に素晴らしいことだと言いたいのです。

このことは、現実世界に生きる私たちにも問いかけられていることです。

誰もが自分の望みに浸れる「夢の国ピノコニー」とは、私たちが今これを見ているインターネット社会そのものです。

ここにはあらゆる希望と欲望が存在し、自分が望むものに好きにアクセスでき、そしてSNSのアルゴリズムはあなたの思考を解析して、より深く仮想世界にのめり込むように誘導します。

SNSが、日々の気晴らしとして機能することは否定しませんし、できません。
ですが、今の先進国において「人生に生きている意義が感じられない」という人々が増えているのは、この事と無関係ではないと思っています。

結局のところ(かなり主語が大きくなってしまうのを承知のうえで言うが)、基本的にインターネット社会は受動的欲望としての側面が強く、そこに「決断」という選択を迫られるのは稀です。

あなたの人生というゲームの「主人公」はあなたでしかありえないのですが、決断のないゲームは、ただ同じボタンを押し続けるだけのものに過ぎないのですから。そこに意義が感じられないのは当然のことでしょう。

要するに、この夢から覚める「決断」をするのは、誰の為でもなく、自分によって自分の人生を救うために必要なことです。

しかし――それでもその「選択」をするかどうかを選ぶのはあなた次第です。

何故なら、自分を救うことができるのは自分以外存在しないのですから。

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