*今回の話は「私は個人的にこう解釈している」というだけの独断と偏見に満ちた主語デカめ系記事です。
*イベント任務海灯祭及び魔神任務間章第2幕までの完全なネタバレが含まれています。
璃月には新年の始まり、最初に迎える満月の日に華やかな祭りが開かれる。
それが海灯祭だ。

祭りの定番と言えば、各キャラクター同士の交流があるが今回の目玉は、やはり魈と鍾離の関係にあるだろう。
この二人の祭りでの対話について特に要望が多かったため、この記事ではこの2人の関係に焦点を当てていきたい。


さて、今回の話で印象に残るエピソードといえばごま油だろう。
往生堂の堂主である胡桃に、ごま油の買い出しを頼まれた鍾離は璃月港を離れ望舒旅館まで歩いてきた。


だが、普通の買い物であれば別に璃月港で済ませればいいはずだ。
それが特別なものであれば話は別だが、よりによってごま油て。
鍾離はせっかく望舒旅館に訪れたのだと魈を訪ねるが、その用事は「ごま油の買い出し」であると聞かされた。
魈は、案の定鍾離の意図が分からずに困惑する。


鍾離が望舒旅館にわざわざきてやったことは魈に松茸とハムを嬉々として見せる姿だった。


っていうか結局ごま油買えてないしな!!!!
では結局、このごま油の雑談にはなんの意味があったのだろうか?
私の結論はこうだ。
このごま油のエピソードはなんの意味もない雑談だ。
だがしかし、なんの意味もない話をすることに意味があったのだと。
端的に言って雑談をするということは、その相手に対して親しい感情を持っているということだ。
もっというと、その人物を仲間と思っている(仲間になりたい)という気持ちがなければそのようなことはしない。
君だっていきなり通学中の電車でオイリーな髪質のおっさんに世間話をしたいと思わないだろうが、黒髪ロングのメガネをかけた知的少女がシュリーマンの伝記を読んでいれば、「君の愛を掘り起こして一生を過ごすことほど楽しいことは想像できない」などと言い出してしまう確率はほぼ100%*に近い。
*一個人の見解です。

話を2人に戻そう。
要するに雑談をするということは、その相手に対してなんらかのポジティブな感情の進展を期待するものであるということだ。
では、鍾離が本当に魈に期待したものとはなんなのだろうか。
魔神任務の璃月編で、モラクスは璃月の人間が自らの手で時代を切り開く力があるかを確かめるために自身の死を偽装し、そして「テスト」に合格したことを認め、璃月を人間の手に委ねた。
他の仙人たちも人の力を認め、「神と璃月の契約」が破棄されたことに納得している。


モラクスは、自身がただの凡人の「鍾離」となることを選択し、このようにして「岩王帝君は死んだ」のである。

だがしかし、ただ一つだけ「岩王帝君」が生きている関係がある。
それが魈と鍾離である。
他の仙人は璃月を人に手に委ねたが、魈だけは未だに「璃月を守る」ことを続けている。
それは、今回のイベントムービーでも明らかだ。

それは何故か?
元々魈は、とある暴虐な魔神の使い魔だったが、魔神戦争の最中にその魔神と対峙し勝利したモラクスは彼を解放した。

モラクスに救われた恩義として魈は璃月を守ることにしたのである。

明言はされていないが、モラクスが「契約の神」であることを考えると、彼は「岩王帝君と契約して璃月を守る」ことを誓ったのだろう。
守る主体は璃月であるが、契約の主体は岩王帝君にある。
だから、「神と璃月の契約」が破棄されても、魈の契約はまだ有効なのである。
岩王帝君と魈の契約がまだ続いているのは「魔神任務間章第二幕」でも明らかになっている。(海灯祭は前提条件に「間章第二幕」が含まれている)
この「間章第二幕」は「無名の夜叉」を巡る物語であったが、同じ夜叉として魈は彼を放置できないと考え、層岩巨淵に向かうことを「帝君」に「許可」を取っている。


本音を言えば、鍾離は魈に自分との契約を破棄して自由に生きて欲しいのだろう。
鍾離は、仙人たちを「友」と思いそのように接している。

だが、魈と鍾離は「友」ではない。
「許可を取る取らないの関係」が真に友と呼べるだろうか?
しかし、鍾離自身が魈に「自由に生きろ」と直接言うことはできないのだ。
もし自分がそうしてしまうと魈が「自由になれという命令」に束縛されてしまうことを知っているからこそ、鍾離は今回の宴のように迂遠な手段を取った。
「自由であれという命令は真の自由ではない」ということを我々はもうウェンティのセリフから知っている。


魈の「自由」は彼自身が手に入れなければ意味がない。
だが現状の魈にとってこれはとても難しい。
何故ならば、魈は自分の存在理由は戦いしかないと思っているからだ。

そして、そうではないことに気が付くのを彼個人がたった一人で成すのは非常に困難である。
何故なら、彼にはある抜けられないループが生成されてしまっているからだ。
その抜けられないループとは「業障」である。
業障とは、魔神の残滓たる魔物を倒すことで、彼自身の体に蓄積された有毒な穢れである。

これがある限り、彼は他者との自由な交流とは望めない。


魔物を倒すと業障が溜まる→業障は人に害を為すので人に近づけず孤高のままになる→孤高である魈の存在意義は闘いしかなく魔物を倒し続ける→魔物を倒すと業障が溜まる→……
つまり、これまでの魈の璃月に対する功績がそのまま彼の暗雲にもなってしまっている。
このように「自由になる」ことは彼にとって過酷な試練となっているが、未来は必ず開けている。
かつての魔神や仙人にとって、「人とは庇護されるだけ弱きもの」でしかなかった。
(本件とは関係ないが、帰終は数千年前からすでに人の中に秘められた真の強さに気がついていたのは流石の先見の明というべきか)
だが時間の流れはあらゆるものに変化を与える。
夜の闇に怯えた人間は、自らの光で闇を照らし払うことができるようになった。
妖魔を退治するのは夜叉の専売特許ではなくなり、闇を祓う専門の集団が現れた。
彼らはもちろん夜叉を尊敬はしているが、同時に彼らなりのプライドがある。


もちろん、夜叉様の実力は疑いようがない。これまで2000年に渡り璃月を守ってきて功績は比類なきものである。
ただ我ら人間はもう守られるだけの存在ではなく、自ら闇を祓い光を照らす力がある。
夜叉殿にはそのことをよくわかっていただきたい……。
重雲が言いたかったのはそういうことだと思う。
魈が未だに契約を破棄しないのは、「戦いしか自分にはない」と思い込んでいる魈は自分が「不要」になることを恐れているからだろう。


だが、本当はそうではない。
ただ存在すること、それ自体に理由など必要ない。
そして、友であることにも理由はいらない。
少なくとも鍾離は魈を仲間でありたいと思っている。

ただ何の意味もない話をする。
たわいもない雑談をする。
それがあの「ごま油」なのだ。
そして、このごま油にはもう一つ理由が隠されている。
そもそも今回なぜ魈は胡桃の招待に応じたのか?
彼がきたのは、胡桃が望舒旅館を訪ねて迷惑行為をしたからということになっている。


しかし鍾離によるとそれ以外に理由があり、それは往生堂が夜叉と深く関わりがあるからだという。


だが、魈曰く「この誘いは実に断りにくいものであった」という。
単にそれだけの理由が夜叉が断りにくいというものになるだろうか?
ここにあのごま油が関わってくる。

鍾離は最初の時点で、自分が「胡堂主の部下」であることを強調している。
そして最初に述べた通り、鍾離と魈は主従の関係にある。
つまり(直接関係ないにせよ)胡桃は「自分が主人であると認識しているものの上司」なのだ。その人物がわざわざお誘いをしにきているのを無碍に断るのはなかなか困難だろう。
最初に述べたとおり、招待するにせよ直接的な命令では意味がない。だから、迂遠な手段を使う必要があった。
鍾離は魈を誘うためにごま油を潤滑油に使ったのだろう(うまいこと言った)。
話を戻そう。
魈自身も、自身の問題点に気が付き始めている兆候がある。

魈自身のことは魈自身が気付き選択する必要がある。
それが遠くない未来であることを願い、いつでもそれを受けいられるのを待とう。
だって「友達」だから。
















